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| ■諫早(いさはや)眼鏡橋■ 撮影:2005.10.16 国指定重要文化財(昭和33年11月29日) | |
| 諫早市宇都町(諫早公園内) 架橋年:天保10年(1839) 移設復元:解体作業期間 昭和34年2月22日〜同4月29日 移設作業期間昭和35年12月1日〜昭和36年8月31日 全長:49.25 巾:5.5 高:7.7 アーチ径:18.1(2連) |
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| 「二度と流されない石橋を」との住民の願いを受け、江戸時代(天保10年)本明川に架けられた諫早眼鏡橋は、昭和32年7月25日の諫早大水害で 人口6万人の小都市が壊滅的な被害を被りましたが、この諫早眼鏡橋は奇跡的に欄干の一部を破損した程度で流されずにすみました。ところが水害後の 混乱した状態の付近住民からは、この橋が流木を受け止め、川の流れを堰き止めた為に両岸の商店街は全滅したと恨んでいました。 しかし、もし諫早眼鏡橋がこの時流されていたとしても、すぐ下流のコンリート橋で同じ事が起きていたのですから、すべて諫早眼鏡橋が原因と断定するのは 間違いだったのです。 復興計画が進む中で、川幅拡張に伴い水害の原因とされていたこの諫早眼鏡橋は爆破されることになっていました。 そんな中、野村諫早市長は眼鏡橋爆破に反対し、文化財としての保存を提案したものだから、被害を受けた地域住民や議会からも「市は全滅し復興資金さえ 底を突いているのに、何千万も出して移設するとは何事か!そんな市長は辞めろ!!」と罵倒されたそうです。 しかし、野村市長は猛反発に遭いながらも「50年後の孫子の代を考えれば市の象徴である眼鏡橋保存が大事」と中央の政治家に働き掛け、眼鏡橋としては 前例がない国の重要文化財指定第1号を勝ち取ったのです。 市長は辞めてしまえ!と罵倒されながらも自分の信念を曲げなかった偉大な市長がいなかったら今頃は爆破された石材は護岸工事の材料になっていたので すから政治生命を掛け諫早眼鏡橋を守り通した野村市長の偉業は、復興が進む中猛反発した人々からも「眼鏡橋を残して良かったなぁ、眼鏡橋はいつ見ても 素晴らしい」と感謝されるようになり、今では諫早市民の誇りとして語り継がれています。 国の文化財指定を受けた後、前例のない移設復元作業の現場監督として総指揮を取られたのが、当時諫早市役所に勤務され、その後「日本の石橋を守る会」 の初代会長に就かれた故山口祐造氏です。 ひと口に復元と言っても、文部省からのお達しは「復元方法は市役所に任せる、ただし昔の工法で昔の寸法通りに仕上げよ」との事でした。 さすがに考えあぐねた山口氏は模型実験を繰り返し、そこから出たデータを元に本工事に取り掛かる事を提案しました。 模型とは言え、5分の1スケールで石材の数も形も全く同じに架橋するには本物以上に熟練した石工の技が必要になるため、諫早市内から昭和の石工さんを 呼び寄せこの難工事に挑み見事に完成させ、そこから得たデータを最大限に利用し諫早眼鏡橋の移設復元も完璧に成功させました。 |
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