長崎の石橋

長崎市の中島川沿いに架かる石橋群を紹介します。


長崎の歴史を語る上で、中島川と石橋群の果たした役割は非常に大きく、中島川と石橋群そのものが長崎400余年の歴史と言っても
過言ではありません。そして、この中島川の石橋群こそ日本の石橋文化の発祥の地なのです。

長い江戸期の鎖国時代に唯一貿易港として許されていた長崎、その中でも特に長崎港内に停泊した外国船からの荷揚げは、港で小さい
船に小分けされて中島川を遡り、各町ごとに陸揚げされ商いが行われていました。

それ故、中島川沿の商人は繁栄を欲しいままにして来ましたが不満が無かったわけではありません。
当初の中島川には木橋が架けられていましたが、一度洪水が起きればその度に橋が流され市民の生活や商いに大打撃を与えていました。

そんな中、1634年に我が国最初のアーチ橋(沖縄を除く)「長崎めがね橋」が架橋されました。
それからと云うもの、貿易で大儲けした中国人財閥やそれに負けじと日本人も財をはたいて石橋を架け続け、1699年までの70年弱でなんと
20橋もの石橋が中島川沿いに架けられました。

この頑強な石橋群のお陰で中島川界隈は益々賑わいを見せ、洪水にも強く木橋のように容易に腐らない石橋の噂は九州の各藩にも伝わり、
石橋架橋が九州全土に進められる事となりました。
この事が「中島川の石橋群」が日本の石橋文化の発祥の地と言われる所以なのです。

■袋(ふくろ)橋■ 撮影:2005.10.16
長崎市栄町‐古川町 中島川
橋長:19.4m 橋幅:4.4m 架設:不詳
架橋年代や架設者は不明ですが、眼鏡橋に次ぐ古い橋との説があります。


■眼鏡橋(めがねばし)■ 国指定重要文化財 撮影:2005.10.16
中島川 橋長:23.0m 橋幅:4.7m 架設:寛永11年(1634)
眼鏡橋の代名詞とも言えるのがこの長崎市の眼鏡橋ですね。架設:寛永11年(1634)興福寺黙子如定禅師が中島川に架けた
わが国初の唐風アーチ石橋です。昭和57年の水害で半壊しましたが、翌年58年には復元され現在に至っています。
日本橋、錦帯橋とともに日本3大名橋のひとつです。

東新(ひがししん)橋■ 撮影:2005.10.16
中島川 架橋年:寛永13年(1673) 石工: 全長: 巾: 高:
昭和57年の長崎大水害にて崩壊したため4年後の昭和61年(1986)に昭和の石橋として架橋されました。
もともとこの東新橋は寛文13年(1673)に中国人によって架けられたそうですが、技術的な問題で崩落し、
延宝9年(1681)に再架橋、しかし寛政7年(1795)に大水害で流され、寛政12年(1800)に3回目の架橋
となったわけですが、昭和57年に三度目の崩壊、その後現在の石橋に架け替えられました。

■すすきはら橋■ 撮影:2005.10.16
中島川 長崎市魚の町‐諏訪町 架橋:延宝9年(1681)
昭和57年の水害で流され昭和61年に鉄筋コンクリートんい石張りした
橋として生まれ変わりました。

■一覧(いちらん)橋■ 撮影:2005.10.16
中島川 長崎市桶屋町‐麹屋町 架橋:明暦3年(1657) 架設者:高一覧
昭和57年の長崎大水害にて崩壊したため4年後の昭和61年(1986)に昭和の石橋として架橋されました。

■古町(ふるまち)橋■ 撮影:2005.10.16
架橋:元禄10年(1697)架設者:河村嘉兵衛の母妙了尼が私費で架設長崎市古町‐麹屋町 中島川

享和3年(1803)再架橋。昭和57年(1982)大水害のため全壊。昭和61年(1986)に昭和の石橋として架設。
昭和57年の長崎大水害にて崩壊したため4年後の昭和61年(1986)に昭和の石橋として架橋されました。

■編笠(あみがさ)橋■ 撮影:2005.10.16
架橋:元禄12年(1699) 架設者:岸村某氏夫妻 中島川 長崎市今博多町‐麹屋町
寛政7年(1795)の大洪水で流失。

享和2年(1802)再架橋。昭和57年の長崎大水害にて崩壊したため4年後の昭和61年(1986)に昭和の石橋として架橋されました。

■大井出(おおいで)橋■  撮影:2005.10.16
架設:元禄11年(1698年) 架設者:岡市郎エ門 中島川 長崎市大井手町‐八幡町
昭和57年の水害で流され昭和61年に鉄筋コンクリートんい石張りした
橋として生まれ変わりました。

■桃溪(ももたに)橋■ 撮影:2005.10.16
架設者:卜意(ぼくい)和尚 架橋:1679年 中島川 長崎市大井手町‐八幡町
卜意和尚は昔罪を犯した為、仏門に入って罪を償おうとしたが、気持ちの整理が付かずにいました。そんな時近くの中の島の
住民が川渡に困っているのを見て、ここに橋を架けてやることが罪滅ぼしに繋がると、雨の日も風の日も托鉢に廻りこの桃渓橋
を架けたといわれています。


大手橋の下で魚釣りに勤しむ子どもたち

大手橋を渡るとすぐシーボルト通りとなります。
手前が■大手(おおて)橋■ 架設者:高一覧 架橋:1650年 奥が■鎮西(ちんぜい)橋■ 撮影:2005.10.16
中島川 長崎市片淵
大手橋は中国人財閥の高一覧が私財を投げ打って最初に架けた石橋です。この事がきっかけとなり他の中国人財閥や日本の商人が
競って石橋を架け始めました。


この日は創立記念式典が催されていました。拱橋はこのゲートの先にあります。
■拱(こまねき)橋■ 撮影:2005.10.16
長崎市西山 橋長:17.3m 橋幅:9.4m 架設:明治36年

■中川(なかご)橋■ 撮影:2005.10.16
長崎市中川町 橋長:14.5m 橋幅:7.7m 架設:大正7年
コメント

■古(ふる)橋■ 撮影:2005.10.16
長崎市中川町市指定文化財 橋長:8.7m 橋幅:2.0m 架設:承応3年(1654)
シーボリト通りの東端を抜けるとこの橋に行き着きます。今でも現役で地元住民に愛されています。


fwd-net長崎・諫早(フォワードネットナガサキイサハヤ)のzentoさまが行っておられる、
「ミニ諫早眼鏡橋を呼び戻そう」という運動のページです。
このミニ諫早眼鏡橋は現在は埼玉県のユネスコ村に保存されていますが、元々は故・山口祐造氏
(初代、日本石橋を守る会会長)が諫早眼鏡橋の移設復元の監督に任命された時、失敗は許され
ない復元作業であるため、その前に模型で実験する事になり、この5分の1スケールの模型が完成
しました。しかし模型と言えど、文部省からの指示は、「移設にあたり元通りの工法で元通りの寸法
に復元せよ」とのこと、当然模型も5分の1縮尺の約2800個の石を使った精密な物で、この模型
による解体実験を数回繰り返すことにより得られた多くのデータを元に、無事「諫早眼鏡橋」が復元
されたわけです。
山口祐造氏が亡くなられた今、彼の偉業を称える意味でも「ミニ諫早眼鏡橋」を呼び戻して欲しい
ものです。


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