![]() |
| 石橋を探し、写真に収め、ホームページで紹介して行く内に、どうしても見たくなるのが架橋当時、あるいは移設前の 石橋の姿ではないでしょうか? 今回、朝日新聞社のアサヒグラフ昭和50年1月31日号「郷愁の石橋(九州・沖縄に咲いた眼鏡橋文化圏)」 並びに、プロカメラマンの渡辺直之様のご好意で石橋の写真を提供していただき、昭和の時代に撮影された石橋 が、景観はもとより、時代の流れと共に石橋自体が移設されなければならなかった背景など一緒にお考えいただき、 今後の保存運動に繋がって行ければと思っております。 |
架橋年の古い順に上から新上橋・西田橋・高麗橋・武之橋・玉江橋と紹介しています。 |
||
![]() 画像提供:アサヒグラフ 撮影:渡辺直之様 |
肥後の石工、岩永三五郎が鹿児島甲突川に最初に架けた石橋が この新上橋ですが、残念ながら平成5年8月6日の集中豪雨にて 流失してしまいました。 |
|
| 架橋年:弘化2年(1845) この場所は甲突川でも川幅50メートルを越す場所であったため、新上橋には岩永三五郎の新しい試みが施されていました。それは4連アーチ としたこと、水流が真正面から当たらないように橋脚を下方ほど広くしていること、その橋脚の先端には基礎が掘り返されないように水制を付けて いること、またアーチの径間も微妙に広さを変えて流れから橋脚を守る仕組みになっていました。それでも流失してしまうほどの集中豪雨だった事 になります。 |
||
|
|
||
![]() 画像提供:アサヒグラフ 撮影:渡辺直之様 |
![]() 撮影:平成16年(2004)2月15日 |
|
| 架橋年:弘化3年(1846) 西田橋は島津藩の表玄関に当たる橋で、当然大名行列も通る場所でした。そのため橋自体も贅を尽くした作りになっており、立派な欄干や 扇形に組んだ壁面、その上アーチも二重構造となっており、三五郎にとって代表作とも言える石橋です。しかし平成5年の集中豪雨にて 新上橋、武之橋が流失したのを受け、平成12年(2000)に惜しまれつつ現在の石橋記念公園(写真右)に移設復元されました。 |
||
|
|
||
![]() 画像提供:アサヒグラフ 撮影:渡辺直之様 |
![]() 撮影:平成16年(2004)2月15日 |
|
| 架橋年:弘化4年(1847) 高麗橋は西田橋のすぐ下流に架かっていた橋で、ご覧のように(写真左)大型トラックも離合できるほどの橋巾をもった石橋でした。 この橋は三五郎が甲突川に架けた3番目の橋です。このころになると三五郎の息子や弟子たちは次々と鹿児島を去り架橋には 地元鹿児島の石工が作業にあたったそうです。この橋も西田橋同様に平成12年(2000)に石橋記念公園(写真右)に移設復元されています |
||
|
|
||
![]() 画像提供:アサヒグラフ 撮影:渡辺直之様 |
残念ながら平成5年8月6日の集中豪雨にて 流失してしまいました。 |
|
| 架橋年:嘉永元年(1848) 武之橋は甲突川の河口に架かっていた橋で三五郎が甲突川に架けた4番目の石橋です。この橋は五連で橋長71メートルは江戸時代に 架かる石橋では日本一の長さでした。ほかの橋同様にこの武之橋も水流に持ちこたえるためアーチの大きさを変えてあり、真ん中が 15.5メートル、その両脇が13.3メートル、両端が10.9メートルになっていました。これだけの長い橋になるとアーチの高低差もかなり 大きくなり、当時は荷物を運ぶ馬も橋の手前で一息つき、その後一気に橋の中央まで駆け上がっていたそうです。 |
||
|
|
||
![]() 画像提供:アサヒグラフ 撮影:渡辺直之様 |
![]() 撮影:平成16年(2004)2月15日 |
|
| 架橋年:嘉永2年(1849) 三五郎が架けた五大石橋の中で一番最後に架けたのが甲突川の最も上流に架かっていたこの玉江橋(写真左)です。この橋を架けるころには 島津藩も財政的に行き詰っており、完成すら危ぶまれていたそうですが、それでも三五郎は少ない予算で完成にこぎ着けたそうです。 そのためか橋巾もほかの4橋に比べて狭く作りもあっさりとしています。 玉江橋も西田橋・高麗橋同様に平成12年(2000)に鹿児島市の石橋記念公園(写真右)に移設復元されています。 |
||
| HOME | 肥後(くまもと)の石橋トップへ | 郷愁の石橋トップへ | |
| 熊本編 | 長崎編 | 福岡編 | 鹿児島編 |
「この記事は朝日新聞社及び渡辺直之氏の承諾を得て転載しています。無断で転載、
送信するなど、朝日新聞社及び渡辺直之氏の権利を侵害する一切の行為を禁止します」