菊池市の石橋

熊本県菊池市の菊池川・迫間川流域に今も残る石橋のアルバムです。


菊池市(旧菊池市)の石橋は大きく分けて菊池川とその支流に6基、迫間川流域に7基、それと菊池北小学校校庭に1基の
合計14基が現存しています。

菊池川流域
(架橋年順)

永山橋
(ながやま)
文政7年「1824」に備前(岡山)の小坂勘五郎により架橋されるも文政12年「1829」流失。
明治11年「1878」に橋本勘五郎(種山村)の手により150メートル上流に架橋される。
相生橋
(あいおい)
文政8年〜9年「1825-1826」に備前(岡山)の小坂勘五郎らにより架橋,しかし当時はアーチ橋ではなく
基礎部を石造にしてその上に木橋を渡した、いわゆる荒子橋であったと案内板には表記されています。

文政10年〜12年「1827-1829」に度重なる洪水により、この3年間ですべての橋が流失、
石造の基礎部分は残っていたため修復を繰り返しながら荒子橋として20年余りが経過する。

嘉永4年〜6年「1851-1853」に肥後種山村(現八代市東陽町)の卯助・卯一・丈八(後の橋本勘五郎)
らにより見事な5連の石橋が完成する。

安政2年「1855」に地震により藤田側アーチ崩壊するも修復。

慶応3年「1867」に洪水により亘側アーチ流失、荒子橋として修復、さらに残された亘側のアーチが流失し、
ここも荒子橋となる。

明治23年「1890」に熊本大地震により中央の基礎部分が崩れるも修復し、その後は藤田側が3連の石橋、
亘側が2連の荒子橋の時代が続く。

大正初期に、道路改修工事により石橋部分の石欄が木造の欄干となる。

昭和3年「1928」に洪水により藤田側の2連のアーチが流失し、中央のアーチのみが残る。

昭和5年「1930」9月に亘側2連と藤田側2連は鉄橋となる。

平成15年「2003」上流側に新道が通る事になり、その後鉄橋は撤去され、石橋も撤去される可能性もあったが、
河川公園のシンボルとして残される事になり、現在に至る。
(相生橋流失・崩落または修復の年代や工事内容等は複数の文献により諸説がある為、事実と異なる部分もある事
を予めご了承ください)

この石橋は小俣橋・藤田橋・藤の輪橋・相生橋など、いろいろな名前が使われていますが、これは最初の架橋以来、
幾度と無く流失や崩壊を繰り返し、その都度修復が行われる際にそれぞれの呼び名が使われたようです。
岩下橋
(いわした)
文政8年「1825」に五斗眼鏡橋として備前(岡山)の茂吉と小坂勘五郎により架橋されるも流失。
明治5年「1872」に岩下橋として架け替え。
竹の牧橋
(たけのまき)
安政5年「1858」ごろに卯一(橋本勘五郎の兄)により架橋。
立門橋
(たてかど)
安政7年「1860」に卯一(橋本勘五郎の兄)により架橋。
この橋の特徴でもある「立門」の文字は漆喰にて塗り込まれたものです。
鳳来橋
(ほうぎ)
明治39年「1906」に葛原仙七、原田亀次郎、原田市平、有働徳治郎らにより架橋。
迫間川流域
(架橋年順)
綿内橋
(わたうち)
文政9年「1826」に地元出身の栄八により架橋。
迫間橋
(はざま)
文政12年「1829」に伊助(西迫間村出身)により架橋。
虎口橋
(こく)
嘉永3年「1850」に虎口村の仙座衛門、西迫間村の伊助、幸兵衛により架橋。
龍門橋
(りゅうもん)
明治22年「1889」に設計監督は橋本勘五郎、石工は西木戸亀喜・北岡直七・高木二太郎らにより架橋
雪野橋
(ゆきの)
明治36年「1903」に菊川金八により架橋
長野橋
(ながの)
明治43年「1910」に辻仁平により架橋。
仲好橋
(なかよし)
大正2年「1913」に小木の白木地区(白木橋)に架橋。 石工:富田辰蔵、富田為平
平成4年「1992」度重なる洪水にて痛みが激しい為解体
平成6年「1994」龍門ダムの親水公園に一部が復元され仲好橋として架橋される。架橋:前川建設
ゆめのめがね橋 平成14年「2002」菊池北小学校校庭に架設。

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